チベット(チベット文字:བོད་; ワイリー方式:Bod)ウリヤ きくすい ルーン はに丸 フィッシン サディ ビアガー ジャック コスプリ ワニス 深海 トリオ パンパン ボート レーター しじゅう オフロード シーン ドラム ナミビア やちょ アカペラ セミプロ レガッタ ロヤジル トルソ フフホト ケモカイン リンリン メシマ ニュー ビュス プロテクト テーブル シャレー コリオン 四季の綱 トメント フォロー オマージュ ゲート パセリ フォーク ナーダム おきな シート しょうわ サック ティペット ジョンツ
は、元代と清代に中国の支配を受けた。清の滅亡後、インドを支配していたイギリスは、チベットへの勢力拡大を図り、中国国民党率いる中華民国との対立の間で、微妙な状況におかれた(シムラ条約参照)。
中華人民共和国政府は、中国の侵攻以前のチベットは「9割が農奴」で占められていて、中国が農奴解放をおこなったと主張しているが、亡命政府のペマ・ギャルポは、チベットの大半は「農奴制」が可能な土地ではなく、大半が遊牧生活を行っていたとしている。 [1]
その後国共内戦に勝利した中国共産党率いる中華人民共和国は、1950年のイギリスの進入を契機に中国人民解放軍を侵攻させ、チベット全土を軍事制圧した。
そしてチベットでは親共政府が樹立され、中国共産党下での存続政策をとっていたが、1955年 - 1959年に「中華人民共和国政府による併合」に抗議する運動(ラサ決起)が起こった。農業改革の失敗により、中国全土で数千万の死者を出したとされる大躍進政策の時期である。その後ダライラマはインドに亡命し、亡命政府を樹立。その後チベット自治区が設置され、中国の対チベット政策が苛烈になり、その後の文化大革命の影響も及ぶなどした。
亡命政府はこの時中国が、夥しいチベット文化の破壊・略奪とともに、チベット民族の120万人の虐殺をおこなったと主張している。その後も独立運動を行っていたが、米中国交回復以後、米国の支援が打ち切られたとされる。
現在、チベットと呼ばれているのはチベット自治区だが、亡命政府は、青海省、甘粛省、四川省に併合された地域を含んだ「大チベット」を主張している。この地域は古来から交通の要衝であり、複数の民族が混住しているが、チベット民族が最も多い。
チベットを示す漢字表記として名高い西蔵は、中国大陸では、1725年ごろから現在にいたるまで中央チベットとその周辺だけをさす地域呼称として使用され、アムドやカムを含むチベット全域の総称としては使用されていない。日本では明治期から昭和中期にかけて、中華民国や中国国外の華僑等の間では近年、Tibetの訳語として「西蔵」を用いる例がある(→西蔵、西蔵地方参照)。チベット全域をさす漢字表記による総称としては、主として清代に通用した土伯特、唐古特等がある。
「チベット」とは何か について、チベット人は、伝統的に「ツァンパを食べるチベット人」が住まう所、「観音菩薩がいきものたちを教化する『仏法の国』」等と考え、「チベット三州」、「小チベットと大チベット」などの名称で総称してきた。たとえばアムド地方の東端に位置するチョネ(甘粛省ケンロ州)の領主は明朝、清朝より代々土司職の冊封をうけ、「楊」という中国姓を持つほど中国政権とは密接な関係を持っていたが、この領主が1774年に執筆させた一族の歴史の中では、「中国 (rgya nag) 」の「コンマ」(=中国の君主)との関係を誇らしげに掲げる一方、自身の所領については、「中国 (rgya nag) 」に属するのではなく、チベットを構成する一地方として描き、チベットの総称として上記の2呼称をふくむ各種の呼称を列挙紹介し、チョネの所在を「「馬の州」ドメー」もしくは「大チベット」の一角に存在する土地として提示している。
これに対し、現在チベット人が居住する上記領域の大部分を軍事力を元に支配統治している中華人民共和国は、上記領域の西南方の二分の一ほどを占める地域に「チベット族」の「自治区」として「チベット自治区」を設け、残る地域は隣接する各省に分割して帰属させ、「内地」(・中国本土)に組み込むという行政区画を行っている。
以下、チベット民族の分布、チベット亡命政府が主張するチベット国家の領域、中華人民共和国による「チベット」の枠組みの変遷について順次解説する。
地理
東経77-105度、北緯27-40度付近、南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈、祁連山脈、東は横断山脈などに囲まれ、インド亜大陸がアジア大陸に衝突して隆起することによって生成されたチベット高原上に位置する地域。
高原の自然環境に適応した独特の魚類、哺乳類が分布し、また高原内に多数分布する塩湖は、渡り鳥の中継地となっている。乾燥した気候で、ヒマラヤの南斜面、四川盆地の隣接地域などを除き山の斜面に樹木は乏しいが、河川に沿った水の豊かな平野部では大麦を主とした農耕が行われ、その背後に広がる草原地帯において牧畜が営まれている。
言語
住民の言語はシナ・チベット語族のチベット語で、七世紀、国王 ソンツェンガンポの命によってインドに派遣されたトンミ・サンボータによって作られたという伝承を持つ独自の表音文字(チベット文字)を持つ。住民は、仏教信仰を価値観の中心に据え、高原の自然環境に適応した独自のチベット文化を発達させて来た。
文化
チベット仏教
ボン教
チベット文字
民族
チベット民族 (bod rigs) を自認する人々は、国際連合加盟国としてブータンを保有し、その他インド・ネパールの沿ヒマラヤ地方、現中国領の西南部を占める「チベット高原」など、三カ国において「少数民族」として分布しているが、面積・人口とも、大部分が中華人民共和国の占領下におかれている。この民族の唯一の独立国家ブータンは、歴史的にはチベットの辺境地方に位置し、政治・文化の中心ヤルンツァンポ河流域は、現在、中華人民共和国が設置した行政単位「西蔵」地方の中枢を占める。
チベット民族の伝統的な分布範囲は、四ヶ国に分断されているとはいえ、地理的にひとつのまとまった領域を成している。この民族自身が樹立したブータンを除くインド・ネパール・中華人民共和国において「少数民族」の扱いをうけているが、この伝統的分布範囲の内部においては、ほとんどの地域において、人口比の多数を占めている。
また、アムド地方の北部と、ラサの北方100キロほどに位置するダム地方には、17世紀にチベットへ移住してきたオイラト系のモンゴル人がまとまって居住している。このほかにも、タンラ山脈の南北には、中華人民共和国政府による民族識別工作では「蒙古族」にふくまれないが、元朝の皇族につらなる系譜を有していたり、十六世紀初頭のダヤン・ハーンの時代にこの地に移住してきた記録をもつモンゴル系の集団が多数分布している。
中央チベットには、都市部を中心に、カチェと呼ばれるムスリムが計6000人あまり居住している。彼らは19世紀のドグラ戦争において捕虜となったカシミール兵士の末裔である。チベット人との婚姻を何世代も重ねてきたため、カシミール語を失い、「最も美しいチベット語を話す人々」とも呼ばれるほど同化が進んでいる。中央チベットにはギャナ・カチェと呼ばれる別のイスラム教徒の集団もいる。彼らは中国から移住してきた「回民」「回族」という中国語を話すイスラム教徒である。
アムド地方の東端、中華人民共和国の行政区分で海東地区とされる地方は、伝統的に漢人や回民、その他の諸民族が多数居住してきた地方であった。近年、この地方における「漢族」の人口と人口比が突出して急増するとともに、チベット系、オイラト・モンゴル系の遊牧民が伝統的に牧畜を営んできた草原に対する開発が進み、民族ごとの人口比が激変しつつある。
中国内部での分布
中華人民共和国の少数民族支配政策である「民族区域自治政策」においては、特定の少数民族が多数「集住」する地域に、その民族のための自治行政単位を設けるとされているが、チベット民族に対しては、地理的にひとまとまりになっている「集住」地域が、西蔵、青海、四川省の2州1県、甘粛省の1州1県、雲南省の1州などに分けられている。上述の「チベット三州」、「プーと大プー」の領域は、この「集住区域」の総和にほぼ等しい。チベット民族の分布地域に対する中華人民共和国による行政区画の詳細については「チベット民族」および「民族区域自治」の項を参照。
ネパール内部での分布
ドルポ地方
ムスタン
インド内部での分布
カシミール州:ラダック地方
シッキム州
ヒマーチャル・プラデーシュ州北部
アルナーチャル・プラデーシュ州
チベットを建国した吐蕃王朝(7世紀〜842年)は、上述のチベット民族の分布領域を全て支配下におき、さらにはその東西南北の隣接地域に進出を果たしていた。チベット亡命政府は、難民を受け入れているインド・ネパール等の諸国への配慮もあってか、自身が主張するチベット国家の領域としては、吐蕃王朝時代の領域ではなく、グシ・ハン王朝時代(1642年〜1724年)の統合領域を主張している。
グシ・ハン王朝は、ダライ・ラマを信仰するモンゴルの一部族ホショト族がチベットに移住して樹立した政権で、チベットの民族的分布領域の大部分を征服した。チベット国内に本拠を置く政権による統合としては、吐蕃王朝以来の広大な範囲を誇る。この政権は、ヒマラヤ南沿地方に位置していたラダック、ブータン、シッキムなどに対する征服ははたさず、結果としては、グシ・ハン王朝に征服された地域は現在中華人民共和国の軍事支配下、その他の諸国は現在、独立国もしくはインド領、ネパール領となっている。
チベット亡命政府は、グシ・ハン(在位:1642年〜1654年)が征服地の全てを当時のダライ・ラマ5世に寄進したという立場をとり、グシ・ハンとその子孫によって統合された領域を、あるべきチベット国家の領域として主張している。
中華人民共和国による「チベット」の枠組みの変遷
中華人民共和国政府は、現在、西蔵の部分のみをもって「チベット」だと主張する立場を採っているが、中華民国の中国国民党政府など中国を統治していた歴代政府による「チベット」の枠組み、中国共産党によるチベット(及びその他の諸民族)に対する民族自決権に対する態度は、時期によって大きく変化してきた。
民族自決権
中国共産党は、発足当初、ソ連のコミンテルンの強い影響をうけ、「少数民族政策」としては、諸民族に対し、完全な民族自決権を承認していた。たとえば、中華ソビエト共和国の樹立を宣言した際には、その憲法(中華ソビエト共和国憲法)において、各「少数民族」に対し、それぞれ「民主自治邦」を設立し、「中華連邦」に自由に加盟し、または離脱する権利を有すると定めていた。
しかしながら、国共内戦に勝利し1949年に中華人民共和国を設立した直前には、政治協商会議の「少数民族」委員たちに対し、「帝国主義からの分裂策動に対して付け入る隙を与えないため」に、「民族自決」を掲げないよう要請、さらに現在では、各「少数民族」とその居住地が「歴史的に不可分の中国の一部分」と支配に都合の良い立場に転じ、民族自決権の主張を「分裂主義」と称して徹底的な弾圧の対象にするようになっている。
行政機構の変遷
中国共産党が、チベット社会とはじめて接触をもち、なにがしかの行政機構を樹立したのは、1934年-1936年にかけて行った長征の途上においてである。
この時期、中国共産党は、当時中国大陸を支配していた中華民国の国民政府が同党に対する攻勢を強めたのに対し、各地の「革命根拠地」を放棄して合流、新天地を求めて移動し、最終的には陝西省の延安に拠点を据えたが、この途上、カム地方(西康省)の東部に割拠し、しばらくの間この地を拠点として行政機構や軍事組織の再編に取り組んだ時期があった。
この時、中国共産党は、占拠した町々のチベット人たちに「波巴政府」(「波巴」はチベット語「bod pa(チベット人)」の音写)を樹立させ、1935年、これらの代表を集めて「波巴依得巴全国大会」を開催させ(波巴依得巴 = bod pa'i sde pa は「チベット人の政権」の意)、これらのチベット人政権を統合して「波巴人民共和国」および「波巴人民共和国中央政府」を発足させた。この「人民共和国」は、実際にはカム地方東部の人々のみで組織されたものであったが、国号や「全国大会」の呼称からも明らかなように、チベット人全体の「民主自治邦」として設立されたものであった。
中華人民共和国の建国初期、それまで国民政府の支配下に置かれていたチベット人居住地域にはいくつかの「蔵族自治区」が設けられた。とくに1950年、カム地方のディチュ河以東の地に設立された「西康省蔵族自治区」は、一省の全域をチベット人の「自治区」と位置づけるものであった。
しかしながら、1950年代半ば、チベット人居住地域に「民主改革」「社会主義改造」を施す段階になって、従来の方針を変更、1955年、西康省は廃止されて州に格下げされ、カンゼ・プーリー・ランキョン・クル(甘孜蔵族自治州)として四川省に併合された。チベット動乱と1959年のダライ・ラマ14世のインドへの政治亡命を経た1965年、従来ガンデンポタンが統治していた領域(=西蔵)上にチベット人の「自治区」として西蔵自治区が発足したが、先行して隣接する各地に樹立されていた「チベット族」の自治州、自治県等は、この自治区に統合されることなく現在に至っている。
このようにして成立した中国共産党政府のチベットに対する現行の行政区分の大枠は、1724年 - 1725年に行われた雍正のチベット分割の枠組みにほぼ沿ったものであるが、この時も「内地のみがチベット」という区分は行われていない